FIRE: 投資でセミリタイアする九条日記

九条です。資産からの不労所得で経済的独立を手に入れ、自由な生き方を実現するセミリタイア、FIREを実現しました。米国株、優待クロス、クリプト、太陽光、オプションなどなどを行うインデックス投資家で、リバタリアン。ロジックとエビデンスを大事に、確率と不確実性を愛しています。

仮想通貨、リバタリアン、そしてセミリタイア

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NewsPicksの記事(残念ながら有料)に、Ethereumの創始者であるヴィタリク・ブテリンのインタビューが載っています。

私たちがなぜ今、クリプト(仮想通貨)の世界にいるのか。

それは非中央集権化を信じているし、プライバシーもオープンソースも、自由も、さらには「人々が自身で情報・価値をコントロールすべきだ」とも信じているからです。

newspicks.com

仮想通貨にドキドキしている人は、大きく3種類に分けられます。

 

1つは投機目的の人。昨今の仮想通貨の値上がりを見て、儲けられそうと思って参入してきている人です。根源的な価値のほとんどない仮想通貨ですから、この人たちはバブルに意識的に乗っている人たちです。

kuzyo.hatenablog.com

 2つ目は仮想通貨というよりその基幹技術であるブロックチェーンに興味を持っている人。ブロックチェーンは仮想通貨を生み出しただけでなく、Ethereumのような分散型アプリケーションプラットフォームも可能にしますし、世の中の管理業務の多くを自動化する可能性さえあります。この人たちは、「仮想通貨は価値がないが、ブロックチェーンには未来がある」という言い方をしたりします。

 

3つ目が、仮想通貨が国のくびきを越え、非中央集権化を可能にし、個人の手に権力を取り戻すものだと信じている人たちです。当初からいわれていたように、これはリバタリアニズムの思想に近いものだと思います。

 

ブテリンは1つ目の投機に関しては否定的な意見を持っていますが、ブロックチェーンの可能性と非中央集権という思想を信じている人です。

 

ぼく自身は、10年ちょっと前に下記の『自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門』を読んでから、根本的にはリバタリアンです。

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

 

 

リバタリアンは、世の中のいろいろな権力から自由であることを重視するとともに、何かがあったときに「お上が助けてくれる」ということも期待しません。逆に「あなたのためだから……」と、いろいろ制約を課されることをパターナリズムだとして嫌います。

 

国が年金として財産を強制的に徴収するよりも、老後の資金は自分で蓄えて投資することを望みます。投資商品に騙されるひとがいるから規制すべきというより、自分で調べて自由に投資できることを望みます。過度なレバレッジは危険だからという規制より、自分でリスクを検討して自由にレバレッジをかけられる世界を望みます。

 

そんなリバタリアニズム的な思いもあり、仮想通貨の進展に期待しているわけです。

 

ぼくがセミリタイアと言っている背景には、もう一つのパターナリズムである「会社」から自由になって、自分の足で立っていこうという思いもあります。日本では、長らく年功序列と解雇規制が続き、会社のいうとおりにしていれば定年までは安泰という時代がありました。でもいまは、成果主義の名のもとに給料は上がらず(下がり)、解雇もどんどんしやすくなってきています。「会社」が守ってくれるというのはもはや幻想にすぎず、個人はどう「会社」を利用するかという考えにシフトが進んでいます。

 

そんななかでは、国家にも会社にも期待せず、所有権と自由という概念を最も大事にして生きていくのが合理的です。その論理的帰結として出てくるのが、サラリーマンから降りて資産運用とマイビジネスで自由に生きていくというセミリタイアなわけです。

 

世の中は、望むと望まざるとにかからわずリバタリアニズム的な流れが進んでいます。この10年「自己責任」という言葉が浸透してきたのがその証拠でしょう。

 

もちろん、AIの進歩とセットで語られることが多くなったBI(Basic Income)は、リバタリアンにとって態度が異なるものです。それでも、BIが政府のコストを削減し恣意性を排除するのは明らかなので、賛同しているリバタリアンも多くいます。このあたりはまだ今度。